私はここにいる
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貴方が剣をとるのなら
私は糸車を回しましょう
貴方が剣を振るう時を
私は糸を紡ぐ時間に費やしましょう
貴方が人を殺めた瞬間
私は一枚布を織り上げる
貴方が身の血を洗った川で
私は布を淡い青に染め上げるでしょう
貴方が戦いを告げる笛の音で目覚めるとき
私は温かいベッドの中で深い深い夢の中
貴方が倒れたその時も
私の庭では薔薇の蕾が目を覚ます
愛しい人よ
私はここにいる
貴方が帰ってこなくとも
貴方の時が止まっても
私の糸車は回り続ける
貴方が逃げ出した緩やかな時で
私は生きている
愛しい人よ
貴方はここにいない
集めた枝の焼け落ちる小さな破裂音。炎が風に揺れる音。そして木々の葉が舞い落ちる音が街道から少し脇に逸れた森の中に木霊する。森には危険な獣の姿はなく、ただエラムという弦楽器の細い音色と、華麗な男の歌声だけが響いていた。
男は吟遊詩人らしく、エラムを右手に、そして左手に弦を弾く弓を持っていた。エラムの弦を押さえる右手が素早く上下し、指が複雑に踊る。そして左手は角度を変えて弓を動かす。弦を一本だけ弾くと、細く高い音が。そして二本同時に弾くと和音が。それらを使い分けて、吟遊詩人は恋の歌を歌う。その声は成人した男性の低い安定した声と、そして変に裏返らない伸びやかな高音を持っていた。上半身はチュニックを着て、頭は淡い金色の髪を布で巻いている。動きやすく裾の絞られたズボンを履いて、足元は旅にくたびれた革の靴。
そんな吟遊詩人が歌い上げるのは、旅の途中で一度耳にしただけだという歌だ。それは既婚の貴領候の愛人として田舎に住まわされた女性が、戦いに赴いた恋人を想って作った歌だという。
愛しい人よ
貴方はここにいない
私はここにいる
甘い幸福感だけがある恋情ではない。愛人という立場に甘んじなければならなかった女の恨みや、それでも愛しいと想った男を奪った戦争への憎しみのこもる歌。だから、主旋律が高く低く上下しても、伴奏となるエラムの音色は常に沈んでいる。
貴方はここにいない
私だけがここにいる
愛しい人よ――
その言葉を最後に、主旋律が終わる。後はエラムの音が曲の終わりを告げるだけだ。吟遊詩人は左手に持った弓を弾き、そっとエラムの弦から外した。しばらくその余韻が森に響き残った。やがてその余韻も消えると、小枝の燃え落ちるパチパチという音に合わせて、控えめな拍手が響いた。吟遊詩人はその拍手ににこりと笑って、座ったままぺこりと頭を下げた。
「綺麗な歌だ。それに……悲しい歌だね。剣を持つ身にとっては、少し痛い」
そう言って吟遊詩人に拍手を送ったのは、言葉通り剣を立てて抱えている傭兵のような旅人だった。髪は短く赤茶けており、纏っているマントは旅に疲れてくたびれていた。
「ロランスなら、ただ家で男の帰りを待っているだけじゃあなくて、剣を持って男と同じ時間を過ごしたいと思うのか?」
ロランス、というのがいま吟遊詩人の前に焚き火を挟んで座っている旅人の名前だった。ロランスは傭兵だ。十三で剣を頼りに生きると決意して、それから人に雇われながら旅をして回り、今年で十八になる。くたびれた服を着ているが、商売道具であり生きる術でもある細身の剣だけは綺麗に磨かれている。
ロランスは今日初めて旅の連れとなった吟遊詩人の質問に、小さく首を傾げた。そして手元にあった小枝を焚き火に放り込んでから答えた。
「どうかな……。……うん、ギーの言う通りかな。ただ待っているという生活は、私にはできそうにない。憧れはするけれどね」
吟遊詩人のギーとロランスは、今朝街道沿いの町で知り合って、それから少しのいざこざに巻き込まれ、夜にはこうして一緒にいる。ギーは旅の連れとしては良い男だった。陽気で、綺麗な歌声も聞かせてくれるし、ロランスの望む形でロランスを女として扱ってくれる。だから今日知り合ったばかりだというのに、ロランスも警戒心なくギーと二人きりで夜を迎えているのだ。
「へぇ? 憧れる?」
警戒心を抱かないのは、ギーが悪い男ではないと感じたせいでもあるし、ギーがもしロランスを襲っても、ロランスがそれを跳ね除ける力を持っているせいでもあった。ギーはロランスの腕を知っていて、少し意外そうな声を上げた。ロランスはそれが恥ずかしくて、鼻の頭を指で掻いた。
「憧れ、というか……。多分、そんな女性であったらという後悔、かな。そうは言っても、これからそんな女性になろう何て思わないんだけど」
もぞもぞとロランスが言い訳すると、ギーはニヤリと笑った。
「ロランスはそのままで十分、女としてカッコイイぜ」
からかっているような口調ではあるけれど、ギーは本気でロランスを褒めたのだ。そう思ったロランスはにこりと笑い返す。
「ありがとう、ギー」
「何の。ロランスは自分を小さく見積もりすぎなんだ。あんたの腕がなければ、俺は今頃無一文、真っ裸でこの寒空に転がってたぜ」
今朝、街道沿いの町で市に出かける人を目当てにひと稼ぎしようと歌っていたギーは、その歌声に相応しい結構な収入をそこで得ることができた。しかしその金目当てに寄ってきた町のヤクザ者と口論になって、ギーは複数の男に取り囲まれ袋叩きにされるところだったのだ。それを助けたのは、たまたま市で旅の食料を求めに来てギーの歌を聴いていたロランスだった。
「じゃあ、ギーは自分の声とそのエラムに感謝しなければ。ギーの歌を聞いていなければ、私は君を助けられなかったからね」
ロランスは剣を抜くことなく、町のごろつきを一人で倒した。ギーの歌声が気に入って最初からずっと聴いていたのに、手持ちが少ないせいでろくにお金を払えなかったことを気にしていたせいもあった。だから運良くギーを助けることができて、これで貸し借りはなしだと勝手に思っていたのだが、助けられた方のギーはロランスに借りができたと言って譲らない。
「俺は四大陸一の吟遊詩人になる男だからな。いずれ借りは返すぜ。何十倍にもしてな!」
「楽しみにしているよ」
そしてこうやって二人は次の町まで旅をすることになった。ギーとしては、戦う術を持たない自分ひとりで旅を続けるリスクを計算してのことだ。ロランスもギーが自分の腕を頼りにして付いてきたことは百も承知だが、それを言うならロランスも寂しい一人旅に陽気な歌い手が一人道連れになってくれて、金も払わずその声が堪能できるというメリットがある。
悪い出会いではなかった。ロランスはそう思っている。この先どこまで共に旅をするか分からないけれど、同じ旅路を進む間は仲良くやっていけたら良い。そう思って一人微笑むと、焚き火を挟んで反対側でギーが何か思いついたような声を上げた。
「……そうだ、ロランスも一曲どうだ? 恋歌じゃあなくても、何か知っているだろ?」
ギーの提案に、ロランスは慌てて首を横に振る。
「えっ? い、いいよ、私は」
「何で。俺しか聞いてないんだぜ? 音痴だって構うもんか」
別に音痴だと言われたことはなかったのだけれど、ロランスは過去に音楽を習った時間のことを思い出してやはり首を横に振る。
「私は、ギーのように綺麗な声じゃない。低くて……かすれているし」
花のない声。剣ならば上手く操れるというのに、エラムを弾く手は何故かいつまでもぎこちなかった。背は高く、体は貧相で、決して男の目を引く女ではない。
お前がそんな風でなければ……。
そう母に何度言われたことだろう。結局、ロランスは母の望む娘にはなれず、母は無念を引きずったまま死んでしまった。母の望む女になれなかったことを、ロランスは後悔していない。ただ、母だけでも昔の生活に戻してやりたかったという後悔はあった。
せめて声だけでも華やかであったら……。
母と二人、もう少し陽気に暮らせただろうかとロランスは思った。するとそこでロランスの暗い思考を突き破るようにギーが叫んだ。
「ロランス! あんたの声はそれが魅力なんじゃあないか! いいか、歌えよ? 歌わないと酷いことになるぞ」
「ギー……」
自分の声が魅力的だと言われたのは初めてのことだった。それこそ冗談だって、そんなことを言われたことはない。しかしギーは真面目な顔で、そしてロランスの憧れる美しい声でこう言った。
「俺はロランスの声が好きだ。だからほら、歌えって!」
そんな告白めいた言葉を口にするとギーはエラムを構えた。まだぐずぐずと戸惑っているロランスに、ギーが様々な曲の出だしを短く弾いて知っている曲はないかと急かす。やがて先程ギーが歌った曲が演奏されたので、ロランスはそこで必死に頷いて見せた。それを見たギーが柔らかく微笑んで、そのままその曲を伴奏する。沈んだ音色の伴奏が流れ、やがてロランスは覚悟を決めて目を閉じた。
貴方が剣をとるのなら
私は馬を駆けましょう
貴方が剣を振るうのなら
私は貴方の傍らで剣をとりましょう
愛しい人よ
私はここにいる
貴方の行くところに
貴方が帰る場所に
貴方はそこにいる
私だけが側にいる
愛しい人よ――